Interview
子どもの不思議と向き合い30年
幼児教育・保育の中の
感覚的な「当たり前」を理論化する
愛知教育大学 教育科学系 幼児教育講座 教授
鈴木 裕子 先生
幼児の身体と心のメカニズムを探求
私は幼児教育・保育内容学を専門としています。内容学とは、幼児教育の教材開発やその指導方法を考えるという保育者側の側面と、そこにいる子どもの姿、心理、発達を捉えるという側面があります。私は、どちらかというと、後者の子どもについて考えることから前者の保育者側の側面に広げています。私がかつて学んだ大学院博士課程の専攻名は「教育臨床・先端課題開発」でした。幼児教育・保育の中の当たり前は、本当に当たり前なのか、を考え、そこで感覚的に捉えられていることを理論化する研究と考えています。
その枠組みの中で特に私は、乳幼児期の身体と心の相互作用を考え続けています。身体という面から心を探っているとも言えます。具体的には、身体表現や運動という子どもたちの身体的な活動を対象にして、そこでの子どもの行為や心のメカニズムを探求しています。その場に出向いて観察したり調査したりする、フィールドワークというスタイルが主です。これまでに、身体活動性、感性、模倣、遊びこむ力、非認知能力について、子どもたちの身体と心が成していることを「見える化」してきました。
幼児教育・保育という学問は不思議です。誰もがかつては子どもだったのに、その子どものことがわからない、だから子どものことを知りたい。やっぱり不思議ですよね。
運命的な出会い。舞踊研究から幼児の身体表現へ
もともと大学時代は、教育学部体育科に在学し、舞踊(創作ダンス)にのめり込んでいました。踊りを創作し、それを自ら踊ることに情熱を注いでいたのです。大学内の活動に留まらず、米国カリフォルニア州立フラトン大学舞踊学部の名誉教授、邦正美氏が主催する舞踊研究所にも所属していました。大学院修士課程では舞踊史を研究し、その後、研究職を考えるようになります。学校体育の授業で行われるダンスの教材や指導法の研究を視野に入れつつ、大学で非常勤講師をしながら……。ただ正直、何か悶々としていました。
ある時、ひょんな出会いから、幼稚園で子どもの生活を見る機会がありました。「子どもたちって身体で表現している! 子どもたちにとっては、生活そのものが全て身体表現!」と衝撃を受けました。私がやりたいのは、幼児期の身体表現なんだ!と、勝手に「運命的な出会い」と受け止めました。
ですが……すぐに壁にあたり、「私は舞踊の理論を学んだから、それが応用できる」とタカをくくっていたことに気がつきました。何より、幼児のことがわかっていない。表現とは「内なるものを外に表すこと」というけれど、幼児の内なるものがわからない。そもそも幼児教育・保育がわかっていない。愕然としました。そこから毎週1日は幼稚園に通いました。ひたすら子どもと共にいて、先生方の様子を見て……でも、最初の頃は、何を見ることが子どもを見ることなのか、何を見たら保育者の意図がわかるのかさえつかめず、1日の終わりにはぐったりする自分がいました。子どもたちからは「何でしょっちゅう来るの? 何をしてるの?」の声。「みんなと遊びたいから来たの」「えー、遊ぶの? 大人なのにー?!」。見習い丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)の経験でした。そこから数えて30年近くたちましたが、まだまだ子どもの不思議と向き合っています。
人間形成の重要な時期に関わる面白さ
研究室でデータを分析したり論文を書いていたりすると、学部学生が「先生、楽しいですか?」と聞いてくることがあります。「楽しい? 楽(らく)ではないけど……」「けれど、好きなんですよね」「そうかな……でも苦しいことが多いかな」「え、苦しいのが好きなのですか?」「少し進んで、面白いことがわかると少し面白くなるかな」。ぴったりした答えが出ません。 乳幼児期とは、人間形成の基礎が培われる重要な時期です。この時期に多くの経験を積むことが人生を豊かにします。研究の面白さ、やりがいがあるとすれば、その重要な時期の「ひと」「もの」「こと」に関わっていられることかもしれません。
「自分のやりたいことがわからない」とよく言いますが、たぶん若いうちにわかっている人って、そんなに多くはないのではないでしょうか。いえ、たぶん少ないのでは。「閃(ひらめ)かない」と言いますが、それも一部の天才でなければ、考えて考えて、もうこれ以上考えられないとなったときに少しいい考えが浮かぶ、そんなものではないでしょうか。できる人、賢い人は、より合理的にものごとを進められる人なのだろうと感じます。でも、それができなかったなら、覚悟を決めて時間をかけること、続けることが大事なのかもしれません。今、ここ、を精一杯生きることで、次に進む何かが見えてくる。それが、与えられる、ということなのだと思います。今、向き合っていることに、無駄なことは何もないのではないでしょうか。